寒さも和らぎ、いよいよ春がやってきます。何かと節目の行事や準備が重なるこの時期は、気づけば一日が過ぎ去ってしまうことも。そんな忙しない日々の中でこそ、ふっと肩の力を抜いて、自分のための余白を作る瞬間を大切にしたいですよね。
そこで、ウェルチル編集部が体験してきたのは東京禅センターが主催する「坐禅体験」。マインドフルネスや瞑想など、自分と向き合う時間を取りたいけれど、なかなか一歩が踏み出せないというあなたにぜひおすすめしたい「坐禅」。
そんな坐禅の魅力を体験するとともに、坐禅のあれこれや心構えについて、東京禅センター部員の稲田健昌さんにお話を伺いました。
会場となる目黒龍雲寺。学芸大学駅から歩いて15分ほどの、閑静な住宅街の中にある
涅槃図が教えてくれる、教えと命のバトン
まずは、お坊さんの法話からスタートする坐禅体験会。今日の参加者は10名弱ですが、どことなく緊張感が漂っています。そんな静寂を破ったのは、お坊さんの『2月15日は何の日か知っていますか?』という言葉。
俗世の煩悩にまみれた編集部は「バレンタインデーの次の日…」としか思いませんでしたが、参加者の方から『お釈迦さまが入滅された日です』との言葉が。2月15日は、仏教の開祖であるお釈迦さまがお亡くなりになった日(=入滅)だということです。
「涅槃図」は2月15日近辺の日程でしか、お寺に飾られることがなく、お目にかかれるのはなかなかレアなのだそう
その時の様子を絵にしたものが「涅槃図(ねはんず)」。人間のみならず、数々の動物がお釈迦さまの死を悼む様子が描かれています。中央付近に描かれている沙羅双樹の木も、青々とした葉を真っ白に変えて、お釈迦さまの死を悲しんだと言い伝えられています。そんなお話を聞きながら、私たちの心は少しずつ日常の騒がしさから離れ、静かな「自分を見つめる時間」へと誘われていきました。
坐禅前の法話では、仏教においてとても大切な「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」、そして「不放逸(ふほういつ)」という教えについてお話をしてくださいました。
これは「自らを灯明とせよ。法を灯明とせよ」という、お釈迦さまが最期に遺された有名な言葉です。「不安定で移ろいゆくもの(=他者)に依存することなく、自らの意志と、揺らぐことのない仏の教えに基づいて生きなさい」という意味だそう。
自らの命は己以外誰のものでもなく、他の誰かに委ねるものでもない。当たり前のことですが、情報が溢れ、他人の目や社会の評価に振り回されがちな現代ではついつい忘れてしまいがちですよね。仏教には、こうした「幸せを自分軸で考える」「自分自身を見つめ直す」といった教えが多いような気がします。
また、「不放逸(ふほういつ)」とは、端的に言うと「怠けるな」ということです。放逸(ほういつ)とは、怠けてしまうこと。お釈迦さまは生前、「どんな修行であろうとも精進に勝るものがない、数ある善行のなかにおいて、不放逸こそ最大であり、また最上である」と説かれていたそうです。毎日、放逸だらけの編集部は、身につまされる思いで聞いていたのでした。
「何もしない」という贅沢な時間で、忙しい毎日に小休止を
法話で心が整ったところで、いよいよ坐禅の実践。
10分ほどの坐禅を3セット行いました。進行を担当されるお坊さんのことを直日(じきじつ)さんと呼び、一度の坐禅の長さを決めたり、気の緩んでいる人に“喝”を入れたりするのだそう。東京禅センターでは、初心者の方でも気軽に始められるよう、一回の坐禅の時間も短めに設定しています。本来は、一本のお線香が燃え尽きるまでを1セットとカウントするそうです。
今回は10名ほどの少人数ということもあり、道場には静かな一体感が漂っていました。軽くストレッチをしたら、足を組み、視線を落とし…あとはただ呼吸に集中します。鼻から吸って口から吐く。静寂の中で聞こえてくるのは、外を走る車の音や、誰かの衣擦れの音。
そして、頭の中には次から次へと湧き出てくる雑念たち…全く「無」にならない自分を悲しく感じながら、10分間の沈黙がゆっくりと流れていきました。「無」になろうと思えば思うほど、とりとめのない考えが頭に浮かんでは消え…これはさながら授業中に面白いことを思い出して、「笑ってはいけない」と思うほど、余計に面白くてたまらなくなってくるあの現象のよう…某ご長寿番組よろしく、「考えてはいけない坐禅」を10分間耐久し、なんとか1セット目が終了しました。
坐禅を終えたあと、お坊さんが、私の隣に座っていたお子さんに感想を聞いていました。すると、お子さんは『心が空っぽになりました』と、なんとも晴れやかな顔で答えるのです。それを聞いて、子供さんの純粋な集中力に打ちのめされているのも束の間、直日さんが、『そのあと、坐禅が終わって足を解いた瞬間、どう感じましたか?』と聞くと、『景色が綺麗だなと思いました』とお子さんが答えました。
それには、直日さんもびっくり。『すごいね。それはお釈迦さまと同じ境地だ。お釈迦さまも、坐禅をして気がついたのは、この世はただただ綺麗であるということなんだよ』とおっしゃっていました。
私が、ひとり「考えてはいけない坐禅」を繰り広げている間、隣ではお子さんが釈迦の境地に達していたとは。大人になるってこういうことなのかもしれません。ですが、そんな雑念たっぷりの大人にも配慮があり、『「無にならなきゃ」「何か良い効果を得なきゃ」と難しく考えないことです。まずは、ひとまず座ってみる。坐禅そのものに特別な意味を見出そうとしなくてもいいんです。』と優しく諭してくださいました。自分を責めず、ただ今の状態をフラットに見つめる。その繰り返しが、少しずつ心の波を穏やかにしてくれます。
2セット目からは、希望者は坐禅のシンボルともいえる木の棒「警策(けいさく)」での“喝”も入れてもらうことができます。私も叩いてもらいましたが、想像以上に痛くない。というかなんだか肩周りがスッキリしたような…悪いお化けでもついていたのでしょうか。
『僧侶の修行道場では、直日が修行僧の様子を見て、集中が切れていると判断すれば予告なしに警策で叩きます。ですが、一般の方、特に初心者の方に向けた坐禅会で同じことをすれば、怖がらせてしまいますよね。
ですから私たちのセンターでは、ゆっくりと回り、手を合わせて希望された方にだけ警策を当てるようにしています。厳しい修行の形をそのまま押し付けるのではなく、今の時代、今の参加者に寄り添った形を模索しています。』と稲田さん。
叩いた後に、背中にピタッとつけたままだとより痛いと教えてくださいました。そのあたりの痛さ調節も直日さんの力量?
時折“喝”も入れていただきつつ、計3セットの坐禅を終えましたが、うとうとすることはあれど、ついぞ編集部が「無」になることはありませんでした。
終了後、『それは当然のことですよ。私たち僧侶だって、数える呼吸が三つ目くらいで別のことを考えてしまうことがあります(笑)お腹が鳴れば「お昼は何を食べよう」と考えますし、誰かに怒られたことを思い出してイライラすることもあります。大切なのは、その雑念を無理に突き放そうとしないこと。一度その思考に付き合ってあげて、自分なりに納得させてから、そっと手放してあげる。そしてまた、一から呼吸を数え直す。この「リセット」の練習を繰り返すことで、雑念を手放すスピードが早くなっていきます』と励ましていただきました。最後はみんなでお経を読んで、フィニッシュ。
坐禅が終わった後の静かな空間に響く、磬子(けいす:右側鐘のようなもの)の音が気持ちいい
無になることはなかったけれど、最後の坐禅が終わって目を開けたとき、視界が少し明るくなったような、なんとなく軽やかな、不思議な感覚に包まれました。大切なのは、ただ座って、日常の動きを止めてあげること。そして、ありのままの今の自分と向き合うこと。それが坐禅の本質的な姿なのだと感じました。
「私は私でいい」お坊さん流ウェルビーイングな坐禅のすゝめ
最後に、稲田さんは『私はよく、坐禅を文章における「句読点」に例えます。句点(。)や読点(、)それ自体に意味はありませんが、それがないと文章は意味をなさず、読みづらくなってしまいますよね。人生という長い文章の中に、句読点としての坐禅を打つ。そうすることで、前後の時間が際立ち、日々がより鮮明になっていくのだと思います。』と教えてくださいました。
『今の時代、何かに振り回されたり、流されたりするのは仕方のないことです。それを”良くないこと”とジャッジし、理想の正解を探そうとすると、余計に苦しくなってしまいます。まずは”それはそれで、いいじゃない”と自分を許してあげてください。その上で、もし疲れを感じたなら、ほんの数分だけ流れから外れて、体を止めてみる。正解を求めるのではなく、ただ座り、今の自分を感じる。そんなシンプルな習慣が、皆さんの日常を少しだけ軽やかにしてくれるかもしれません。ぜひ一度、何も考えずに座りに来てください。』
みなさんも、一度坐禅体験に行って、忙しい毎日に句読点を打ってあげるのはいかがでしょう。明日からの毎日が、ほんの少し軽やかになるかもしれません。